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2020年02月26日
自分を知ることは、他者を知ること
文:平山鷹也
目次
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- 1. 自分と他者
- 2. 逃げてきた過去に徹底的に向き合う
- 3. 自分探しとは、潜在意識の海に潜っていくこと
- 4. 自分を形成する、先天的要素と後天的要素
- 5. 自分と他者に境界線はない
1.自分と他者
自分が習得するのに苦労した技術やトレーニングほど、他者が苦労していく過程を理解できる。
逆に自分が苦労せずにできたことができない人を見ると、なぜできないのか理解できない。
これはスポーツトレーナーをしていなくても、多くの人が実感できることだと思う。
人は、いつでも自分と他者を比較して理解しようとするからだ。
自分という比較対象がない事象については理解できないと判断してしまうことが多い。
ここに、自分を知ることの意義がある。
自分という人間をより深く知れば知るほど、多くの人との共通点を見いだせるようになる。
それはすなわち自分の理解がそのまま他者を理解するための材料として使えるということだ。
例えば、私は小学生のころに始めた野球をカテゴリやレベルは違えどずっと今でも続けている。
その一方で飽きやすくミーハーな一面もあり、野球以外の習い事は3年以上続いた記憶がない。
水泳、そろばん、ピアノ、塾、居酒屋バイトなど。
たったこれだけのことを知るだけで、1つのことに熱中して周りが見えなくなる人も、
集中力がなくてなかなか1つのことを続けられずに悩む人のことも理解する材料を持っていることになる。
人は誰しも様々な要素をもっている。自分を知るという過程において、本当に何人もの自分に出会ってきた。
それを言語化し、顕在化することができれば、多くのクライアントに対して最適な自分を見つけやすくなる。
もしくはそれらが原因で悩むクライアントを救うヒントになるかもしれない。
しかし多くの人は自分という人間は1人だと思っている。だからこそ理解できなかったり、争いが生まれたり、拒絶が生まれたりする。
私は、幼いころからあることがきっかけで、自分という人間が2人いることを強く強く意識していた。
ここからは、その理由も含めて少しだけ私の自分探しについて書いてみたいと思う。
2.逃げてきた過去に徹底的に向き合う
私がまだ保育園の頃、家族からの告知に激しく動揺した。
(詳細は割愛させてもらいますが、今でも両親とは仲が良いです)
それからの約20年間、私の中にはいつも、
「自分のことは誰にも共感してもらえない(けどしてもらいたい)と思う自分」と、
「誰にも頼らずに1人で生きていけることをひたすら周りにアピールする自分」がいた。
もちろん無意識で。
あえて名前を付けるなら、寂しがりな鷹也と、強がりな鷹也である。
この2人の鷹也は裏表の関係でありながら、どちらも人とのコミュニケーションを拒否する性質を持っていて、どれだけ仲良くなった友達でさえ、100%心を許すことはできなかった。
そんな自分がいることもなんとなく感じながら、でも向き合えずにいたところ、ある試験に落ちた。
そこでのフィードバックで言われたことが、私の人生を大きく変えるきっかけとなった。
「自分自身がクライアントに対してもっとオープンマインドになる必要がある」
全てを見透かされているような気がした。
本当の自分を隠して、相手にも自分にも嘘をついてる人間が、相手のことを理解できるはずがないと気付いた。
そこから、私の自分探しという終わりのない旅が始まった。
当時の試験官だった方のサポートも受けながら、まずは自分自身の心に正面から向き合ってみた。
(幼少期の写真)
様々な手段を用いて自分の過去と向き合っている中で気付いたことは、あまり感情の起伏がなくいつも冷静でいられると思っていた自分の中に、実はとてもたくさんの感情があったということだった。
しかも感情の起伏がないのではなく、自ら感情を抑え込んでいたことまで理解できた。
1人で生きていくためには感情に流されちゃいけない、自分の感情が相手にばれることも弱点を見せることだからうまく隠して生きていかなければならない。
そんなマインドセットを小さい頃から積み上げてきていたことに気付いてしまった。
ここまでを理解した段階で、他者に対してオープンマインドになれない人に対する感度は非常に高くなった。
「あ、この人は何か心に抱えているものがあるな、でもそれを誰にも(もしくは数人にしか)伝えられなくて苦しんでいるんだな。」
そしてそれがアスリートであれば、胸椎や胸骨の硬さに直結するかもしれないし、消化できない出来事を抱え込んでいるせいで、消化器の不調をもたらしているかもしれない。
もしその問題を自分が解決すべきと感じ、クライアントもそれを望んでいることがわかれば、もしも自分だったらどんな場所で、どんな雰囲気で、どんな時間ならそれを伝えやすいかイメージしやすくもなった。
まさに他人事が自分事になった瞬間である。
自分のために始めた自分探しだったが、気付いたら他者を理解する能力も成長していた。
3.自分探しとは、潜在意識の海に潜っていくこと
人の意識には、「潜在意識」と「顕在意識」がある。
普段意識していることは顕在意識、そしてすべての行動や考え方に影響を与えていると言われているのが、普段は自覚することすらできない、潜在意識だ。
文献にもよるが、顕在意識は意識全体の1%未満で、私たちの思考のほとんどが潜在意識によるものであるらしい。
そして潜在意識は、過去の経験によって形成されていくこともわかっている。
私の例でいえば、幼少期に誰も自分のことは理解してくれないという認識をしたせいで、
「人生は自分だけの力で生きていかなければならない」と潜在意識に刷り込まれてしまった。
(これを心理学ではイラショナル・ビリーフ(非道理的な思い込み)と呼ぶ)
だからその後いくら同じ境遇や自分よりも大変な過去を持つ人に出会ったり、本当の意味で信頼できると思える人に出会っても、「自分1人で生きていかなければいけない」という考え自体を変えるのは難しい。
なぜなら顕在意識では幼少期のトラウマと今の考え方が結びついていないからだ。
自分が今考えているような顕在意識は、その100倍以上もある潜在意識から形成されている。
そしてその潜在意識は自分の過去にすべてがある。
だからこそ、潜在意識という深い深い海に潜っていくことは、「今の自分」を知るために非常に大きな要素であると考える。
JARTAにおいては、自分自身を内観することを「内的認識力」として言語化しているが、
それは身体感覚や意識状態だけでなく、潜在意識の要素も大きく関わっている。
ある場面で緊張したり身体が硬くなったり、逆にある状況下ではリラックスできたり、
これらの意識Ⅰに対して新しい意識Ⅱを作って克服したり利用したりするのも1つの手段だが、
潜在意識と向き合い、その理由が明確になれば設定を積み重ねることなく解決できることもある。
人前で発表するのがものすごく苦手で、緊張しすぎてしまう場合でも、過去に人前で大きな失敗をしてそれを親や友達に責められた(と本人が思っている)ことが潜在意識にあるのかもしれない。
それに対して、新たな意識Ⅰを設定してそれを作るルーティンを決めてしまうことも1つの作戦である。
しかし上記の潜在意識が原因だとわかれば、他の対策ができるかもしれない。
例えばそのときの出来事を両親(や友達)と思い出として話してみる。
そこですごく恥ずかしかったと伝えてみると、実は周りの人はそれほど気にしていなかったり、むしろすごく良かったと感じていることさえある。
こんなちょっとしたことで、潜在意識は書き換わる。
でも潜在意識に気付けなければ、ずっと対症療法が続いてしまうかもしれない。
もし自分のクライアントで、いつもピンチの場面で緊張して思うようなプレーができないと悩む選手がいて。
緊張したときに現れる身体症状(呼吸、胸郭、アウターマッスルの過剰収縮など)に対する対処法や日頃のケアを指導することはできても、本当の意味で克服する手段を構築するのは難しいかもしれない。
でもそこに潜在意識という観点を持っているトレーナーがいれば、もう1つ別の観点から解決策を探すことができる。
他者に潜在意識という海に潜ってもらうためには、自分はそれ以上に深く潜っている必要がある。
スキューバダイビングのインストラクターも自分より深いところへクライアントを潜らせることはできないように、潜在意識への潜り方もまた、自分探しの中で模索していく要素である。
4.自分を形成する、先天的要素と後天的要素
これまで述べてきた、「潜在的要素」とは、どちらかというと後天的要素が強い。
つまり、人生の中で起きた出来事によってその後の選択が変わってくる、ということだ。
では次に、先天的要素における「自分」というものにも向き合ってみたい。
先天的要素とはなんだろうか。
わかりやすいのは一卵性双生児の例だと思う。
一卵性双生児を生まれた瞬間に異なる環境で育てさせるという研究があるが、そこでは指しゃぶりなどの癖は全く同じだったが、性格は異なっていたと報告されている。
ここでの性格という表現が曖昧ではあるが、指しゃぶりという癖は先天的要素が強く、性格は後天的要素が強いと、この研究においては言えるだろう。
指しゃぶりや性格が先天的か後天的かを述べたいわけではなく、人は誰しも持って生まれたものと徐々に形成されていくものがあるということである。
私は先天的なものとして、家系(遺伝)、生年月日に関連した九星気学や星座などを考えてきた。
家系は理解しやすいかもしれないが、実はそれ以外の要素も取り入れていくと面白い発見がきっと見つかる。
そのようにして調べていくと、どの要素でも共通することが2つあることに気付いた。
1つは、個人的で独立的であること。
もう1つは、繊細で感性豊かであること。
前者はすごく当てはまるが、後者は全く心当たりがなかった。
そこでこう考えた。
前者は先天的にも後天的にも強調されやすい人生で、
後者は後天的要素によって隠されているのではないか。
もともと繊細で感性豊かであるはずだったが、それを押し殺すことが幼少期に必要だった。
でもそれが今はもう必要ないのであれば、先天的に持っている感性はこれからの大きな伸びしろとなる。
このように考えていくと、後天的要素と先天的要素をうまく活用すればもっともっと伸ばせる要素や、場面に応じて意識的に補完していく必要がある要素などをある程度は分類できるようになる。
この考え方は、スポーツトレーナーとして選手やチームをサポートする際にも非常に役立つ。
対象選手の先天的要素を事前に把握する、という意味でもそうだが、
硬いから、身体操作ができないから伸びしろ、だけではなく人種や体格など先天的な要素から考えられる(考えるべき)ことが爆発的に増えるからだ。
それがチームであれば地域の特徴や学校やチームの歴史などがそれに当てはまる。
世界で戦う上では当然のレベルで考慮することかもしれないが、生まれながらの特徴、地域差や学校の特徴、背景・歴史的要素に対する考え方が大きく変わることで、国内でのサポートにおいてもとても意味があると感じている。
5.自分と他者に境界線はない
自分を知るほど、他者を知ることができるようになる。
冒頭で述べたように、自分が経験したことであれば想像しやすく理解も共感もしやすいことが多い。
しかしそれだけではない。
自分という人間の歴史やそれが形成した潜在意識、様々な関係性の中で生まれる先天的要素を知れば知るほど、自分とは全ての関係性の一部でしかないと実感する。
全ての関係性の一部でしかない自分と、同じく一部でしかない他者との境界線はなんだろうか。
もともと1つだった地球に人が生まれ、縄張り争いをした結果、国境という境界線が生まれた。
それと同じように、我々も自分と他者との境界線を無理やり作っているのではないだろうか。
最新の科学や、昔からある宗教、各時代の天才たちも、自分と他者との境界線は曖昧であると指摘している。
分子レベルのミクロな視点で見ると、人と外界の境界線はかなり曖昧となり、
どこからが自分で、どこからが自分以外なのかよりわからなくなる。
そんなことを知ってか知らずか、「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチは自然界に線などないと言って、
人の輪郭線をぼかす手法、スフマートを発明している。
いくつかの宗教においても他人と自分を区別することなく1つになろうとすることを説いている。
(ワンネスの概念など)
これらの話が正しいかどうかということではなく、昔から現代まで、いつの時代も自分と他者との関係性は人々の興味の対象であり続けていることが面白い。
さらにAIが進化してどんどん機械化していく現代において、人の感情や神社仏閣に関連するような、
いわゆる目に見えない事象に対する書籍やテレビが増えてきている。
私自身もまた、自分探しが進めば進むほど境界線というものは自分が作っているだけで、実際には存在していないのではないかと思う出来事に数多く出会い、体験してきた。
知識として知るだけでなく、自身の体験として実感できればそれを体現する方法も意味も理解が深まる。
それを体験するための1つの手段が自分探しである。
スポーツトレーナーとは、他者である選手に徹底的に向き合い、その選手の人生にも大きな影響を与えうる職業だと思う。
そんな大きな責任を伴う仕事を全うするために、
日々自分に向き合い続ける姿勢を忘れずに鍛錬を続けていきたい。
自分を知ることは、他者を知ることだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
JARTA公式HP
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