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2014年03月08日

スポーツ選手にとっての「命」の重みを考える

我々スポーツトレーナーが扱う命とはどういったものなのでしょうか。今回はスポーツトレーナーにとっての、命の重みについて再考してみたいと思います。
スポーツ選手にとっての命の重みを考える1
JARTAの赤山です。
本日のテーマは「命の重み」です。少し重たい内容ですね。でもこれを軽視する人は、スポーツ現場では通用しないと考えています。
 
私がスポーツトレーナーの世界に入ってきたきっかけでもあり、最重要視している視点について、ご紹介したいと思います。
 
この記事を読まれている方の中には、
「命っていっても、よほどのことじゃなければ、スポーツ現場で命の危険に遭遇することはないんじゃない!?」
そう思われる方も多いのではないでしょうか。
 
たしかにスポーツ選手は健康そうですし、命を失うことは少ないように思います。。
でも実はスポーツ現場でも、脳震盪や心疾患など生死に関わる場面はあります。
 
今回お伝えしたいのは、生死を意味する「命」ではなく、スポーツ選手にとっての違う2つの命です。
ひとつは「選手生命」という命です。もうひとつは「一番大事なもの」という命です。
 

最後までねちっこくできることはないか?

辞書で命と調べると生命や一生、寿命の次に『最も大切なもの』と出てきます。
私は何故かカテゴリー毎に、競技人生を狭めたり、引退を早める大きなケガをしてきました。
 
中学3年のときは、最後の総体の予選で転倒した際に手をつき、救急病院で骨折と診断を受けました。
ギプスを巻かれ、その後の試合出場を断念するよう指示されました。
 
この世の終わりかのように絶望している自分を見て、母親は次の日から数件整形外科に連れて行ってくれました。
結果的には小学生のときに大きな骨折をして、そのときの骨片が残っていただけでした。すぐにギプスが外れ、その後の試合に出場できました。
 
高校生のときには、最後の冬に試合中相手と膝をぶつけて、膝蓋骨を骨折し長期離脱しました。
しかも初診では骨折の指摘がされなかったため、数週間痛みを抱えながら競技をしていました。
おかしいと思い他の病院で精査し、骨折を判明し即手術となりました。
 
なんとか最後の試合には間に合ったものの、練習もろくにできておらず、不本意すぎて引退試合で涙も出なかったことを覚えています。
 
学生時代の自分にとってバスケットが全てでした。
まさに人生そのものであったと言えます。
 
スポーツ選手にとっての命の重みを考える2
自分のように、スポーツが人生のそのものである選手が、ケガや病気で引退やドクターストップをかけられたとき、どんな思いになるか私は痛いほど分かります。
 
いまの職場ではそういった選手と数多く遭遇します。号泣しリハビリにならないところからのスタートとなる選手も少なくありません。
そういった選手を少しでも救うには知識・技術も大事ですが、私は『思い』が一番大事であると考えています。
 
目の前の選手をどうにか試合に出場させるために、なんとかすべはないものかと、そう考えることで学びが深くなり、信頼関係も強固となります。
 
新人の頃、先輩セラピストによく『赤山くんはねちっこい』と言われました。
はい、私はねちっこいです。
あっさりはいそうですかと引き下がるのが一番嫌いです。
 
自分の選手生命を少しでも延ばすために東奔西走してくれた方のように、私はこれからも東奔西走したいと思っています。
常にケガをみている時にその選手の選手生命を担っていると感じながら指導しています。
 
そして現在進行形で、多くの選手から自分自身の生き方を学ばせてもらっていると強く感じます。
 
最後に、就職してから出会い、この思いを確信にさせてくれたひとつの書籍があり、ご紹介させていただきます。
『スポーツ障害から生き方を学ぶ』
スポーツ選手にとっての命の重みを考える3
 
私は初心を忘れそうになるとき、必ずこの本を読みます。
ご興味がある方は、ぜひご一読ください。