百瀬正浩


1 はじめに
2 理学療法士を目指すきっかけはスポーツが縁!
3 私自身が経験した苦い思い出……
4 気が付くとスポーツの方面へ!!
5 スポーツトレーナーに対する私の想い。
6 おわりに

 

1 はじめに

私自身の「スポーツトレーナーという仕事に対する想い」は、大きく分けて二つからなります。

一つ目は、自分自身が幼少期から今に至るまでに、スポーツに取り組んで来た中で経験した「苦い思い出」です。私自身が歩んできたスポーツの経歴は、比較的恵まれた環境でしたが、決して華々しい物ではありませんでした。その時の経験から、「これからを担う選手達には、同じ失敗を絶対にして欲しくない!限りある時間を無駄にして欲しくない!」という想いがあります。
二つ目は、理学療法士という職業に抱いた、強い憧れと期待が基にあります。高校の時、自分自身の怪我がきっかけで、スポーツ専門の理学療法士に出会いました。この職業なら、「自分のような悩みを抱えている選手の力になれるし、スポーツに関わっていける!」そんな思いで、理学療法士を目指しました。しかし、実際にこの業界に飛び込んでみると、すぐにぶち当たる現実問題…。スポーツの世界とは遠い距離を感じました。「やはり現実的に考えたら諦めざるを得ない」そんな風に思いながら、臨床生活を過ごしてきました。スポーツへの関わりは淡い期待だと深く痛感…。その中で、どこか諦めきれず、気が付くとスポーツに関する方面を勉強している自分がいました。徐々に諦めきれない想いが強くなってきた中、出会ったのが「JARTA」でした。生活は一変。憧れが目標に変わり、「理学療法士をもとに、スポーツトレーナーとして活躍できるチャンスだ」という想いが膨れ上がっていきました。

大まかにお伝えすると、こういった背景で私のスポーツトレーナーに対する想いが成り立っています。

 

2 理学療法士を目指すきっかけはスポーツが縁!

私は、長野県松本市のはずれの農家で生まれ、男4人兄弟の末っ子として育ちました。母の教育方針は「勉強は後でもいい。男たるもの、とにかく体を動かし、とにかく食べなさい」といった、一に運動、二に運動という感じのものでした。その教育方針のもと、兄たちが始めたのが、長男は卓球、次男・三男は柔道でした。特に、次男・三男は幼少期より「県内に敵はなし」といった感じで、全国大会は常連。大学時代には全日本強化指定選手に選ばれる程でした。私は、柔道はよくわかっていないながらも、兄たちの大会の際には、週末あちこちへ応援に行くというのが日常茶飯事でした。
そういった環境で育ってきたので、私自身もスポーツするのはまさに当たり前でした。小学校時代は入学と同時にサッカーを、中学校からはバレーボールを始めました。「将来は兄に見習って、それなりに活躍できる選手になろう」そんな気合十分で入学した高校で、希望を砕くような怪我を経験しました。三年生が引退し、新生チームで頑張っていこうと決意した6月。ボールを追い掛け、ふいに飛び込んだ際に、左肩関節を脱臼。複数の靭帯も損傷し、入学早々に離脱となってしまいました。
その後、関節包を再形成する手術を受けた後に出会ったのが、スポーツ専門の理学療法士の方々でした。その時感じた印象は、「まさにゴッドハンド(周りの患者さんが言っていたから)!!かっこいい!!この仕事につけば、痛みや動きで悩んでいる選手を救える!!」でした。その魅力に魅かれ、将来は理学療法士を目指すことを決意しました!!

 

3 私自身が経験した苦い思い出……

私自身が経験した苦い思い出は、実は怪我が中心ではありません。成長が比較的早かったのもありましたが(小学校を卒業する時に身長が170cmを越えました)、小学校から中学校にかけては、非常にスポーツが上手くいっていた印象でした。自分で言うのもおかしいですが、脚もそれなりに早かったし、なにより高く跳べたし、思い通りに身体が動く!そんなような印象でした。
高校へ入学し、確かに大怪我に見舞われましたが、1年を掛けて何とか練習へ復帰はできました。しかし、そこからが悲劇と苦難の毎日でした。今思えは非常に熱血でスパルタの先生だったので、怒られるという恐怖感と隣り合わせでバレーボールやっていたようにも思い出されますが、何よりほとんど思うように身体が動かなくなってしまいました。復帰した直後より、徹底的に筋力トレーニングをし、身体を鍛え抜きました。当時は焦っていたというより、それが答えで成長する道だと信じていたからです。結果は、パワーは抜群だが、徐々にスピードが消失…。キレのある動きができなくなり、スパイクのスピードも、派手な音の割には遅い状態になっていきました。なにより致命的だったのが、スタミナの激減です。パワーを出す分疲れやすく、長時間の練習や試合にほとんど耐えられなくなってしまいました。そんな状態でも、鍛えることをやめることなく、そのまま引退となりました。
高校生活はあっという間で限りがあります。不完全燃焼とも言えないほど、腑に落ちない状態で終わった高校のバレーボール生活でした。今となっては、当時の自分にアドバイスができます。それどころか、さらに輝ける状態にだってさせてあげられるのではないでしょうか。「それを教えてくれる人さえいたら」今だにあの頃を思い出し、そう思います。「これからを担う選手達には、同じ失敗を絶対にして欲しくない!限りある時間を無駄にして欲しくない!」そんな思いが強くあります。

 

4 気が付くとスポーツの方面へ!!

理学療法士免許を取得した後は、回復期の病院へ就職しました。それはなぜか?「スポーツの方面へ行きたい」、そんな思いで入学した専門学校で、やはりよく言われるのが、「スポーツの世界は狭き門。特別な人じゃなきゃ難しい」などなど。卒業に向かうにつれ、だんだん現実的に考えたら、「普通に働いていく方がいいのでは?とりあえず、病院に入ろう」そんな思いへ変わっていったからです。結果的にはリハビリの盛んな病院へ入職したことで、非常に多くの経験ができたため、今へ繋がっているので良かったのですが。
病院へ入職した後も、スポーツへの関わりは淡い期待だと痛感する毎日でした。「やはり現実は厳しいのか?どうせスポーツの方面へ行くのは憧れで終わるんだ!」そう感じて過ごす日々でした。
現実的にはスポーツへの方面は無理!そんなふうに思っている中、気が付くとスポーツの方面を勉強している自分がいました(まわりには変人扱いされましたが…)。スポーツ理学療法のセミナーや、県協会のスポーツサポート(マラソンやスキーなど)へ参加し、徐々に諦めきれない思いが強くなっていました。思い出されるのは、最初に理学療法士を目指した時です。初心に帰れば帰るほど、結局は諦めきれず、スポーツの方面へ向かっていました。
臨床3年目を迎える頃には、目指す理学療法士像が固まりつつありました。「やはり理学療法士は動きのプロ!怪我や障害の治療に終わっては理学療法士になった意味がない!理学療法士なら、スポーツ選手であっても、望んだ動きを与えることが出来るんだ!!」これは、私自身が理学療法士という職業に抱いた、憧れと期待です。正直、生意気ながら本当にこう思ってきました。ちなみに今も思っています…。
臨床6年目を迎えた頃、転機がありました。「JARTA」との出会いです。ここでは長くなるので伝えませんが、正直今でも全身が震えたのを覚えています。しかもそこには、今までの腑に落ちていなかった問題が解決に向かう、たくさんの答えがありました。「理学療法士をもとにスポーツへ関われるチャンスだ!スポーツトレーナーとして活躍できるチャンスだ!」と強く感じました。「JARTA」と出会えたことで、スポーツトレーナーへの道が繋がり、大きく世界が変わりました。

 

5 スポーツトレーナーに対する私の想い。

スポーツトレーナーに対する私の想いは、目指す理学療法士像がそこにあるからです。今後考え方は変わってくるかもしれませんが、とにかくまずは自分の目指したい方向へ、しっかりと進んでいきたいと思っています。そして、一番の想いは、「私自身が経験した失敗を、今の選手達や、これからを担う子達に絶対にして欲しくない」ということです。選手たちは限られた時間を、スポーツに向き合っていきます。その中で自分の抱えている課題を克服するため、あるいは掲げた目標を達成するため、日々練習に向き合います。一生懸命、練習に明け暮れたのに、結果がどんどん振るわなくなってくる、そんな悲しい思いは決してして欲しくありません。特に、高校生活はあっという間です。結果次第ではその後の人生が変わってきます。私はスポーツトレーナーとして、私のような思いはせず、充実してスポーツへ向き合えるよう、選手が重ねた努力はちゃんとなにかしら形になるよう、選手に関わることができればと想っています。それから、選手が望んでいることがあれば、その道筋を示してあげられるトレーナーになりたいと想っています。

 

6 おわりに

以上、長々となりましたが、スポーツトレーナーという仕事に対する私の想いをまとめてみました。だいぶ趣旨とズレている部分もありますが、一度はまとめてみたかったので、包み隠さず書いてみました。何度も書いてきましたが、私自身の経験が今後の選手たちに活かせればと思います。ありがとうございました。